説 教 「天国のはかり」 指方周平牧師 (2014.9月)
聖 書 マルコによる福音書12:38~44
2000年昔のユダヤ人にとって、唯一の礼拝の場であったエルサレム神殿を参拝することは、厳粛な信仰の義務であると同時に、地方や諸外国に住んでいたユダヤ人にとっては心躍る観光旅行でもありました。過越祭になると、当時のエルサレムには200万人近い人々が訪れ、楽しい市場が立ち並び、壮麗な巨大神殿の祭壇で祭司たちが動物を屠って次々いけにえを献げる様子は、単なる宗教儀式に留まらず息を飲む見世物にもなりました。そして境内の賽銭箱に参拝客が金を投げ込むことも一種の見世物になっており、大金が豪勢に投げ込まれるたびに賽銭箱の周りに集まった群衆が歓声を上げていた様子を思い浮かべます。
そんな境内において、敬虔そうに振舞いながら見せかけの言動だけに終始しているユダヤ指導者たちと論争して欺瞞を鋭く指摘された主イエスは、弟子たちに「律法学者に気を付けなさい」「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と諭されてから、賽銭箱の向かいに座って人々が献金する様子を観察され始めました。すると、そこに貧しい未亡人がやってきてレプトン銅貨を2枚賽銭箱に入れたといいます。これはパンが買えるかどうかという位の額面で、大金が投げ込まれるたびに歓声が上がっていた境内においては誰も注目しない、無きに等しい献金であったことを思います。しかし、その様子を見つめておられた主イエスは弟子たちを呼び寄せて「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と称賛されたのでした。
この場面で照らし出されますのは、この世の額面では量ることのできない主なる神への感謝の姿勢です。しばしば自分の置かれた境遇を、財産や肩書、健康状態など目に見えるものを基準にして量ろうとする私たちですが、私たちを創り、日毎に生かしてくださる主なる神の御前に立ち返って気付かされますのは、物や数値には換算できない天からの恵みが、様々な姿に形を変えて与えられ、ここまで養われてきたという驚きです。パウロは「わたしたち1人1人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」(エフェソの信徒への手紙4:7)と証言していますが、誰に強いられずとも、誰から注目されずとも、自分の持ち物を全てそっと献げた名もなき未亡人は、自分を生かすのは主なる神であるという恵みのはかりをしっかり見据えていました。
今朝の聖書場面を辿りつつ、次の詩を思い出しました。
「浅い流れは音が高い わたしの祈りよ 言葉よ 行いよ
音が高くないか 深い流れは音をたてない」(河野進)
自分の生き様は、人の反応を意識した浅はかで騒々しいものになっていないか、小賢しい損得勘定に陥っていないかと反省させられると同時に、ここまで養い、導いてくださった主なる神の御許に立ち返れば、今にいたるまで尽きることなく注がれてきた天からのあらゆる恵みへの感謝が静かに湧き溢れてきます。神の御子イエスの命までも与えられるほどに主なる神に愛されている私たちには、これからも、いつでも、どこでも、この世の数字には換算できない恵みが、キリストの賜物のはかりに従って注がれます。この世の訓練の旅路にありつつも、天に国籍を持つ者として、この天国のはかりを見据え直し、祈りを携えて、今週も、物事の奥深くを静かにまっすぐ見つめられた主イエスの御跡を、転び迷いながらでも、諦めずに辿って参りたいのです。
(2014年9月21日礼拝説教要旨)