「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」
旧約 申命記6:17~25
新約 ローマの信徒への手紙10:5~17
旧約聖書・申命記は、奴隷状態にあったイスラエルの人々を率いてエジプトを脱出し、目的地カナンを目指す40年の旅路を導いたモーセの遺言とされておりますが、モーセが人生の終焉に際して、イスラエルの人々に繰り返し申し命じたのは、主が命じられた戒めと定めと掟を守り行えということでした。申命記に先立つレビ記においては既に「わたしの掟と法とを守りなさい.これらを行う人はそれによって命を得ることができる」と命じられており、イスラエルの人々は命を得て常に幸いに生きるために、主の命じられた戒めと定めと掟こと律法を忠実に守って主の目にかなう正しいことを行おうとしてきました。しかしモーセ5書だけで完結しなかった旧約聖書39巻は、預言者たちによって主の御心を懇切丁寧に幾度教え直されても従うことが出来なかった人間の罪を、その長い歴史を通して赤裸々に浮き彫りにしております。
さて、かつてサウロという名であった頃のパウロは、主の命じられた戒めと定めと掟を守り行うことに幼少期から自らの全てを費やしてきた熱烈な律法徒でした。そして自分の内側だけに湛えられるのではなく、自分の外側へも溢れ出て行ったその熱情は、自らの信じる生き方とは相容れない存在を敵として迫害するほどに過酷なものでした。使徒言行録9章には、迫害を逃れたキリスト者たちを追いかけて行ったサウロが、ダマスコへ向かう途上で復活の主イエスの光と御言葉に照らされて、執拗な迫害者から熱烈な伝道者へと変えられていく回心の端緒が記されておりますが、そのパウロは後に書いた手紙の中で「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています.善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう.死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と、自分の使命感や義務感によっては主の求められる生き方には到達できなかった自分自身を告白しています。
キリスト教会では「救われた」という言葉を耳にしますが、皆様には自分が救われたという実感がおありでしょうか。私は子どもの頃から教会学校に連なり、中学生の時に洗礼を受けましたが、幼少からの念願だった洗礼を受けて聖餐に与っても自分が別人になったわけではなく「救われた」という実感はありませんでした。やがて救いの実感が得られるまで聖書を読み、祈り、休まずに礼拝を守って信仰生活に励まなければと自分を駆り立て、その思いの先に牧師にまでなりましたが、自分が絞り出そうとした生き方によって自分が救われたという実感を味わうことは遂にできませんでした。かのマルチン・ルターも修道院にいた頃は、恵みの神を獲得し、神に義とされるために難行苦行を重ねたといいますが、彼の良心は平安を得ず、神を憎む思いすら心によぎる苦境に陥ったといいます。
私は、律法徒だった頃のパウロには、どれだけ律法の戒めと定めと掟を型通りに守ることで天に上ろうとしても、どれだけ自己吟味を深めて底なしの淵に下ろうにも、神の義を得られたとの確信がなかったのではないか、その不安を振り切ろうとする強迫観念が自らを更に過酷な生き方へと追い詰め、遂には他者への迫害という形で爆発していたのではなかったかと思いを巡らせています。そんな状態に束縛されていたパウロにまことの自由と平安を与えたのは、パウロに代わって律法を完成させ、パウロに代わってパウロの受けるべき苦い杯を飲み干され、御自身の真実にパウロを結んでくださった主イエスでした。パウロの内側に由来する決意や生き方によってではなく、パウロの外側から「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかけた十字架の主イエス、迫害者との面会を訝るアナニアに「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」と啓示された復活の主イエスが、パウロを律法主義と自己吟味の泥沼から解放し、まことの命を得させたのでした。こうして、自力では見えなかった救いの事実へ恵みによって目を開かれたパウロは、律法を用いて人と人の間に線引きをするのではなく、人と人の間に宿られた主イエス、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになられる十字架と復活の主イエスを宣べ伝えるために膨大な手紙を書き、また、出て行って主イエスを証ししたのでした。
今朝の新約聖書箇所においてパウロは、ヨエル書の預言を引用して「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と明確に語っています。イエスは主であると信じ告白した私たちは、私たちの絞り出す信心のような傲慢や、悔い改めのような言い訳、気まぐれな使命感や窮屈な義務感によってではなく、ただ、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられた十字架と復活の主イエスに結ばれており、今週も、この取り消されることのない救いの事実を仰ぎ直して礼拝するために御前に集められ、この救いをすべての人に宣べ伝えていくためにキリストの体である教会から各々の日常の現場へと派遣されていくのです。
(2024年6月2日聖霊降臨節第3主日礼拝)