説 教 光の子として歩みなさい  

聖 書 エフェソの信徒への手紙5:8

 

ユダヤの国で何百年と待ち望まれてきた救い主がお生まれになられた場所は、王の子に相応しい宮殿や神の子に相応しい神殿ではなく、何も整っていない見落とされた家畜小屋でした。絵本や絵画で描かれる生誕劇のイメージを手放して聖書をたどり直してみますと、驚くべき事実が浮き彫りにされてきます。

それは石打の刑と隣り合わせだった少女マリアの予期せぬ妊娠、自分の子ではない命を婚約者に宿されてしまったヨセフの葛藤、臨月に重なった命がけの長距離移動、ようやく到着したベツレヘムでは宿屋から拒まれ続ける不安、最後に辿り着いた不衛生な場所における慌ただしい出産、そして産湯もないまま取り急ぎ布にくるめられた救い主が雑菌だらけの動物のエサ入れにとりあえず寝かされた状況とは、おおよそ和やかさで温かいイメージとは相容れない、過酷にして悲惨そのものでした。さらに、その誕生を最初に知らされたのは、当時のユダヤ社会において軽蔑されていた羊飼いや、忌み嫌われていた異邦人の占い師たちでした。

 

しかし、天使はこの状況が「あなたがたへのしるしである」と告げました。これこそが律法を守って生きる義しい人だけでなく、見落とされてきた全ての罪人を救うという主なる神の決意のしるしだったのです。

神の御子であられながら人間としてお生まれになられた救い主は、33年の地上でのご生涯を通して、神によって造られた人間の本来あるべき生き方をお示しくださいました。救い主は、当時の社会において軽蔑されていた人々や忌み嫌われていた人々を無視なさることなく、その名を呼び、身許に招き、訪ねて行かれました。そして与える生き方、仕える生き方、許す生き方、敵をも愛す生き方を十字架の死に至るまで従順に貫き通され、神のかたちとして造られた人間のまことの命のあり方をお示しくださいました。

 

何も整っていない見落とされた状況への誕生を私たちへのしるしとされ、軽蔑されていた人々や忌み嫌われていた人々をも分け隔てすることなく愛され、遂には全ての人間の罪の代価になって十字架に架かられ、3日目に死人の中から復活された主イエスは、信じないかもしれない不確かな私たちの悔い改めや決意に先んじて、私たちをご自身の真実に結び直してくださいました。これは私たちの追いつかない理解や、定まらない自覚に左右されない私たちの尊厳です。
「あなたがたは世の光である」と私たちにおっしゃられた主イエスは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」とお命じになられました。実に、すべての人を照すまことの光・主イエスに照らされている私たちには、主イエスの示された下に向かっていく生き方に倣って、傷ついている人の名を呼び、寄り添う使命が与えられています。主イエスの生き方に倣って孤独な人に声をかけ、疲れている人を助け、困っている人に手を差し出し、落ち込んでいる人を励まし、悲しんでいる人を慰める、そういった小さな愛の業を通して、この世に小さな光を灯していく御用が世の光とされた私たちには与えられているのです。


私たちの日常生活や人間関係は、主イエスが示された生き方に従うことで、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げていく礼拝の現場であり、その生き方によって自ずと主イエスを証していく伝道の最前線です。

暗くなっていく時代にあって「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と命じられた私たちが、すべての人を照すまことの光・主イエス人に従うことで、まことの命の充実を生き、私たちと共におられる主イエスを証しできますように、主イエスよ、どうか私たちの絞り出す信心や悔い改め、使命感や義務感に由来しない、あなたさまの聖霊で私たちを満たしてください、私たちを光の子として用いてくださいとの祈りを、このクリスマスの節目に携え直したいのです。