説 教:あなたがたがわたしによって平和を得るため
かつて、恐れの渦中にあった弟子たちの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」(ヨハネによる福音書20:19,21,26)と宣言してくださった主イエスは、新しい1週間の始まりに際して、今日の弟子である私たちに何をお語りくださっているのでしょうか。
今朝、聖書日課で指定されている新約聖書舞台は、最後の晩餐の席における主イエスの訣別説教(ヨハネによる福音書13~16章)の終盤部分ですが、この後、捕らえられ、翌朝には十字架にかけられる主イエスが「聖書の中の至聖所」とまで言われるほど密度の濃い説教の締めくくりに弟子たちにおっしゃられたのは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」ということでした。
しかし、主イエスに足を洗われ、パンを分けられ、互いに愛し合うことを掟として与えられ、聖霊を約束されて「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と信仰を告白したはずの弟子たちは、この数時間後、主イエスを見捨てて逃げ、ペトロに至っては3度も無関係を装うことになります。
そんな臆病な弟子たちに先んじて、主イエスがおっしゃった「勇気を出しなさい」との御言葉の真意を思い巡らせます。
「勇気を出しなさい」と記されているギリシャ語θαρσεῖτε(サルセイテ)は、湖の上を歩いておられる主イエスを幽霊と勘違いし、恐れおののいた弟子たちに主イエスが「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(マタイによる福音書14:27、マルコによる福音書6:50)とおっしゃられた聖書場面でも用いられており、θαρσεῖτεには「安心しなさい」という意味もあります。
主イエスは、やせ我慢してでも、何とか勇気を振り絞ってがんばりなさいと弟子たちを叱咤激励されるのではなく、わたしと共にいてくださる父なる神さまが、あなたがたを愛しておられる、そして、わたしは既に世に勝っているのだから「勇気を出しなさい」「安心しなさい」と、その友と語るように、顔と顔を合わせて弟子たちに語られた様子を想います。
私は「今、世を去って、父のもとに行く」とおっしゃって、これから十字架の死に臨まれる主イエスご自身が、主イエスについていけない弟子たちの臆病さも、無関係を装う卑怯さも、何もかも知った上で「勇気を出しなさい」「安心しなさい」と、先んじて宣言しておられることに申し訳なさと、ありのままを受け入れられている深い慰めを覚えます。
私たちは、目の前の状況に左右される自分たちの定まらない生き方や信仰によって救いを得るのではなく、ただ、主イエスの揺るがない真実に包まれて救われている事実、私たちを愛してくださる主イエスが、いつも私たちの只中におられる事実を、礼拝の度毎に思い起こし、感謝し、主イエスが模範を示してくださったように互いに汚れ、傷ついた足を洗い合い、主イエスに命じられたように愛し合うためにもキリストの体である教会に結ばれています。
そして、教会は、信仰だけでなく疑いも、大胆だけでなく臆病も、一致だけでなくすれ違いも、様々な矛盾を抱え込んでいる私たちに、それでも「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」とおっしゃって十字架につけられ、3日目に復活して「あなたがたに平和があるように」とおっしゃってくださった主イエスが、いつも共におられる事実を喜んできた2000年の歴史にわたる共同体です。
この礼拝から、新しい1週間が始まります。
新型コロナウイルスのもたらした非日常は、まだ終わりが見えませんが、主イエスは「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」とわたしたちにおっしゃっておられます。
ご自身の真実にすがる者には、惜しむことなく永遠の命を与えてくださる主イエスは「勇気を出しなさい」「安心しなさい」と、私たち1人1人に呼びかけてくださっています。
私たちに平和を得させるため、あらゆる世の苦難に勝利され、十字架の絶望の死からも復活された主イエスは、これまでも、これからも、いつでも、どこでも私たちと共におられます。
だから、大丈夫です。
私たちを御心に留め、顧みてくださる(詩編8:5)神さまご自身が、私たちと共にいてくださる、その安心に満たされて、聖霊によって、この礼拝から、新たな1週間の旅路に送り出されてまいりたいのであります。
(2020年5月17日復活節第5主日礼拝)