説教「わたしは命のパンである」
コリントの信徒への手紙Ⅰ 11:23~29
フランスの美食家ブリア=サヴァランは「あなたが普段から食べているものを教えて欲しい.あなたがどんな人であるか、当ててみせよう」という言葉を残しています。
「わたしは命のパンである」と宣言されたキリストは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」とおっしゃられました。
この御言葉はキリストが御自身を受け入れる者に、永遠のいのち・まことのいのちを与えてくださるとの約束であり、肉体を維持するために日毎のパンが必要なように、キリストの弟子に命のパン・キリストが不可欠であることを示しています。
今日の主題は聖餐です。
キリストは十字架につけられる前の晩、パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き「取りなさい.これはわたしの体である」とおっしゃられ、また、同じように杯をとって「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」とおっしゃって弟子たちにお渡しになられました。
伝道者パウロは今日の聖書箇所においてキリストが定められた聖餐に臨む弟子・信徒の心得を書き綴っております。
この手紙が送られたコリント教会は分派活動が顕著で、教会の一致が傷つけられておりました。
また大都会コリントに根を降ろしていた世俗的価値観や道徳的退廃は教会内部にも悪影響を及ぼしており、信徒たちはキリストに結ばれた者としての証しをも損なっておりました。
さらにコリント教会では、キリストの死と復活を記念し、キリストの血と肉に与った恵みを共に想起するはずの聖餐に臨む態度もバラバラだったのです。
キリストの似姿としてのキリスト者も、キリストの体としての教会も、全ては十字架のキリストを土台に造り上げられていくのだと教えてきたパウロは、今日の箇所において「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」「だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」と語って、自分たちの罪のために死に渡され自分たちが義とされるために復活させられたキリストの前に自分を省み、悔い改め、へりくだって聖餐に与るようコリント教会の信徒たちを諭しています。
そして、この勧告は2000年の時空を超えて、私たち1人1人にも、私たちの教会にも届けられております。
さて、引き渡される夜「これは、あなたがたのためのわたしの体である.わたしの記念としてこのように行いなさい」「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である.飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」とキリストが定められた聖餐のパンと杯について、それらはキリストの体と血の象徴にすぎないと唱えたのはスイスの宗教改革者ツヴィングリでした。
これは他の宗教改革者たちが唱えた化体説、共在説、臨在説といった聖餐論とは異なるものでしたが、ツヴィングリは聖餐にあずかる共同体こそがキリストの体になるとの思いに至っておりました。
パウロは「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」と、教会の一致が損なわれていたコリント教会に書き送りましたが、一致とは、悟りに到達した結果ではなく、バラバラの1人1人が、キリストの御名の下に一緒に集まることをやめず、主イエスが示されたように仕え合い、主イエスがなされたように赦し合い、主イエスが命じられたように愛し合おうともがき葛藤し続けている未完の途上そのものではなかろうかと思いを巡らせます。
実に教会は、どんな状態や状況にあったとしても、神の御子・キリストの肉と血によって贖われた尊く重い共同体です。
キリストの体である教会に招かれた私たち1人1人が、現状に開き直ることなく自らを省み、悔い改め、へりくだって共に十字架を仰ぎ「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられたキリストに立ち返って共に聖餐に与る時、救われてなお不完全なままの罪人の群れは、名実共に、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場になるのではないでしょうか。
(2024年7月28日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教)