説教 キリストがあなたがたの心の内に住んでくださいますように
旧約 歴代誌下7:11~16
新約 エフェソの信徒への手紙3:14~21
マサダの要塞やカイサリアの港湾など、巨大建築によって自らの権力を誇示してきたヘロデ大王は、ソロモン王の創建・ゼルバベルの再建に由来するエルサレム神殿の修繕に際して、神殿の建物だけでなく、神殿が建つモリヤ山そのものを、切り石で覆い尽くして巨大な祭壇にするという壮大な改築工事に着手しました。
紀元前20年の着工から竣工まで83年を要し、実に東京ドーム3個分もの大きさに相当したというこの巨大な神殿は、主イエスがエルサレムを訪れられた時は未だ工事中でしたが、弟子の一人が「先生、御覧ください.なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」(マルコによる福音書13:1)と感嘆の声を上げたことが福音書に記録されているように、8年前に教会から送り出していただいて、この場所の遺構を訪れた私も「古代の人間が、これほどのものを建築できたのか」と、その規模に圧倒されました。
さて、そんな壮麗な神殿は、竣工からわずか7年後の紀元70年、ローマとの間に起こったユダヤ戦争によって破壊され、再建されないまま今日に至っておりますが、そもそも、神殿とは何なのでしょうか。
かつて最初の神殿が竣工した時、施主のソロモンは「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか.天も、天の天もあなたをお納めすることができません.わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(列王記上8:27)と祈りをささげ、ステファノも「いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません」(使徒言行録7:48)と証言しましたが、私たち人間は、私たちを造られた神を、自分たちが作った場所につなぎとめるようなことはできません。
ただ、今朝の旧約聖書箇所において、主なる神が「この所でささげられる祈りに、わたしの目を向け、耳を傾ける.今後、わたしはこの神殿を選んで聖別し、そこにわたしの名をいつまでもとどめる.わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる」とソロモンにおっしゃられたように、神殿は、主なる神の臨在を人々に想起させ、人々が祈りと供え物を携えて参拝する礼拝の場所として聖別されました。
それから約1000年後、伝道者パウロは、場所としての神殿ではなく、神の臨在を想起させる存在としての神殿を「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(コリントの信徒への手紙Ⅰ 3:16)「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(コリントの信徒への手紙Ⅰ6:19)と語りました。
すなわち、聖霊を授けられたキリスト者が、すでに主なる神の臨在を証しする神殿とされているという霊的な事実を、ユニークにして的確な表現で証言したのです。
さて、キリストを証ししたが故に捕らえられ、牢獄に入れられてしまったパウロは、その獄中からエフェソ教会の信徒たちに手紙を書きました。
前半の締め括りとなる今朝の新約聖書箇所において、パウロは「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように.また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」と、執り成しの祈りを綴っております。
自由に会いに行けるなら、直に語らい、伝えたかったでしょうが、それが叶わなくなってしまった中で、獄中のパウロが遺言を絞り出すようにエフェソ教会の信徒たちに書き綴ったのは、父なる神がひとりひとりの心の内にキリストを住まわせ、そのキリストが、ひとりひとりを満たし、人間の知恵や理解を超えた愛の奥義を理解できるように導き、キリストの似姿にまで成長させてくださいますようにとの切なる祈りでした。
そして、この祈りは2000年昔に、この手紙を受け取ったエフェソ教会の信徒たちだけに限らず、キリストの真実に結ばれた古今東西・全てのキリスト者、この私たちをも包んでいる祈りなのです。
たとえ私たちの心の内が、人に見せることなどできない状態、消化できずドロドロに発酵してしまった罪によって死の腐臭を蔓延させ続けているように感じられてならない状態であったとしても、真夜中の暗く、不気味な家畜小屋に誕生されたことを私たちへのしるしとしてくださったキリストは、私たちの心の内に宿ってくださっています。
これは私たちの理解や自覚といった内側の状態や、周囲からの評価といった外側の状況に左右されない事実であり、私たちの尊厳であり、命脈です。
自分が絞り出す信心や悔い改め、使命感や義務感によっては、崩されることのない神殿を建ち上げることのできなかった私たちは、ただキリストに結ばれ、キリストの肢とされ、聖霊の養いによって、生きた神殿として、キリストの似姿として、キリストを証しする御用に用いられています。
それは決して複雑なことではなく、人となられた神が人に分かるように示してくださったように、私たちになしてくださったように、無駄や手間を押しまず、忘れられた人を訪ねて声をかけ、傷ついた人を裁くことなく慰め、悲しむ人を励まし、自分が背負わなくてもよい重荷を引き受け、一緒に担っていくことです。
それが、私たちが遣わされております日常の現場で、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げることであり、キリストの住まわれる生きた神殿とされた私たちがなすべきまことの礼拝なのではないでしょうか。(参照:ローマの信徒への手紙12:1)
(2024年9月15日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教)