説 教 彼がわたしの名によってわたしの言葉を語る
旧 約 申命記18:15~22
新 約 使徒言行録3:11~26
クリスマスに向かう降誕前節は、旧約聖書を軸に礼拝の聖書箇所が選ばれ、主なる神の創造と救済の歴史を学びながら、救い主の来臨に備える時とされています。私たちキリスト者にとってヘブライ語聖書・旧約聖書は、救い主の到来を約束する書物でありますが、その成就を証する新約聖書において最も引用される旧約聖書の書物は申命記です。申命記の「命」とは律法を表し、伝統的理解では、奴隷状態にあったイスラエルの人々を率いてエジプトを脱出し、目的地カナンを目指す40年の旅路を率いて来たモーセが、最期にイスラエルの人々に律法を申し伝えた遺言説教とされてきました。
今朝の旧約聖書箇所は、モーセがイスラエルの人々に「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる.あなたたちは彼に聞き従わねばならない」と主なる神の御言葉を伝えた箇所です。モーセは神の山ホレブで聞いた「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける.彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう」「彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する」との主なる神の御言葉を踏まえて、御言葉に忠実であること、偽りの教えに注意し真実と偽りを見極める基準を語りつつ、主なる神が信頼できる預言者・指導者を御自身の民に送られるという約束をイスラエルの人々に語りました。
これはモーセの役割を引き継ぐヨシュアや、後の時代に現れる預言者たちを表すとも解釈できますが、キリスト教では「あなたたちは彼に聞き従わねばならない」「彼がわたしの名によってわたしの言葉を語る」とモーセによって到来が預言された存在こそ、救い主イエス・キリストを指していると考えられてきました。
今朝の新約聖書箇所においてペトロも、神殿の一角に一斉に集まってきた民衆に「モーセは言いました.『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる.彼が語りかけることには、何でも聞き従え.この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる.』」と、今日の旧約聖書箇所を引用しながら、救いの約束の成就としてのイエス・キリストを証し、人々に悔い改めを促しました。
さて、今日の聖書箇所は時空を超えて「あなたたちは彼に聞き従わねばならない」「彼が語りかけることには、何でも聞き従え」と私たちにも語り掛けておりますが、天地万物を創造された主なる神の御子が人間としてこの世界に降られ、人間の言葉で主なる神の御心を教えてくださったにもかかわらず、律法に関して無学な漁師たちには易しく、ファリサイ派の人々や律法学者たち専門家には難し過ぎたのが主イエスの御言葉です。
そして「聞く」とはどういうことなのかと立ち止まって思いを巡らせるのです。
端的で鋭い断想で知られる藤木正三牧師は、その著書の中に、次のような一文をしたためておられます。
「友の意見を聞く、先輩の意見を聞く、後輩の意見を聞く、親の意見を聞く、子の意見を聞く、反対する者の意見を聞く、敵の意見を聞く、大衆の意見を聞く、総じて自分以外のものの意見を聞くということは自分が正されてゆくことです.自分は正しいとする私有観念が壊されてゆくこと、自分が拠所としていることを問いなおしてゆくこと、聞くということはそういうことです.語ることよりも聞くことの方が消極的な受身の態度でありながら、内的に充実して深味をたたえているのは、『自分を捨てる』ことがそこにあるからです」(藤木正三『断想 神の風景 人間と世間』p203「聞く」より)
実に「聞く」とは、言葉を理解するだけにとどまらず、言葉に自らを照らし合わせて、自らの生き方を省みる姿勢であることを思い巡らせます。
主イエスの御言葉を聞いた漁師たちと専門家たちとの違いとは、決して知識や熱意や経験の差ではなく、自分を捨てて「聞く姿勢」「自らを省みる姿勢」すなわち「悔い改め」が有るか無いかの違いではなかったか。そして自分は、悔い改めもって御言葉に聞き従って生きているのかと心を探られる思いがいたします。
信仰生活が長くなれば、自ずと聖書の御言葉を蓄積するようにはなりますが、ともすれば自覚がないまま聞く姿勢を崩し、自らを省みる姿勢を失った高ぶりに舞い上がってしまう私たちです。はたして自分は、天からへり降って来られた救い主の御言葉に、どのような姿勢で聞き従い、再び来られる救い主をお迎えしようとしているのか。「聞く姿勢」「自らを省みる姿勢」すなわち悔い改めとへりくだりを常に変わらず、持たせてくださいとの祈りを携え直して、ありふれた姿を纏われ、見落とされた場所にお越しになられる救い主の来臨に備えてまいりたいのであります。
説教後の祈祷
主イエス・キリストの父なる神さま、御名をあがめ賛美します。天で御心が行われておりますように、地上に、私たちの間に、平和の主の御国が来ますように。
あなたさまがモーセを通して「彼がわたしの名によってわたしの言葉を語る」「あなたたちは彼に聞き従わねばならない」と主イエスの到来を約束されたことを思い起こします。
また約束の成就としてこの世に来られた主イエスが「聞く耳のある者は聞きなさい」と何度もおっしゃられ、その主イエスを証したパウロも「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と諭したこと、それらを代々の教会が語り継いできたことを思い起こします。
しかし謙虚に耳を傾ける、心して聞くことは、自分の在り方が糺されるかもしれない、自分が変えられるかもしれないことですから、自分に甘く、優柔不断な私たちに決断をも迫ります。
どうか、驕りや高ぶりと表裏一体の私たちが絞り出す信心や悔い改めに由来しない、主イエスの霊・まことの謙遜とへりくだりの霊によって、私たちをあなたさまの御心に適う者としてください。
あなたさまが「これはわたしの愛する子」と承認され「これに聞け」と命じられた御子イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。
(2024年11月17日 降誕前第6主日礼拝説教)