説教 我々にふさわしいこと

聖書 マタイによる福音書3:13~17

 

誕生間もなくヘロデ大王による嬰児殺害を逃れてエジプトに避難された幼子イエスの一家は、ヘロデ大王の死後にガリラヤ地方の小さな町ナザレに移り住まれたのですが、洗礼者ヨハネのエピソードを挟んで再び登場される今日の聖書箇所で、幼子であられた主イエスは既に大人になっておられます。

ルカによる福音書は、ナザレで大工として生活をされていた主イエスが宣教を開始されたのは「およそ三十歳であった」(3:23)と記述しておりましたが、その節目に際して、主イエスは洗礼を受けるために、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られたのでした。

 

当時ヨハネは、荒野で悔い改めを叫ぶ姿から旧約聖書の預言者エリヤの再来のように見なされ、メシアの到来を期待していた人々からは彼がメシアではないかと期待をかけられ、主イエスさえ「生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と評されたほどの人物でした。

そのヨハネは主イエスが洗礼を受けるために来られたのを見ると「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と言って辞退し、主イエスを思いとどまらせようとさえしています。

実は、福音書が記述された紀元1世紀の半ばから後半、誕生から数十年しか経っていなかったキリスト教会においては、神の御子が人間から洗礼を受けたならば、主イエスはヨハネの弟子になって教えも受けたのか、また、神の御子にも罪の赦しを得るための洗礼が必要だったのかという疑問や戸惑いがあったそうです。

しかし、主イエスが「今は、止めないでほしい.正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とおっしゃられたのを聞いて、ヨハネは主イエスの言われるとおりに洗礼を行ったといいます。

 

主イエスがおっしゃっておられる「正しいこと」とは、文脈から読み取れば洗礼を受けることです。

神の掟・律法が納められている旧約聖書において洗礼を想起させる出来事としては、重い皮膚病に苦しんでいたシリアの将軍ナアマンがヨルダン川で体を7回洗って清められた奇跡、生後8日目の男児に施された割礼や、聖別された者が油を注がれる儀式などがあります。

このように、主なる神との特別な関係を表明する儀式や、主なる神との関係を新たにする行為は旧約聖書にも記されてはいるのですが、実は洗礼という言葉は旧約聖書にはありません。

では主イエスがおっしゃられた「正しいこと」とは、一体何だったのでしょうか。

 

実に、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた救い主は、旧約聖書の中に洗礼の根拠が見出せないとか、形式的な儀式に過ぎないとか、神の子には必要ないなどと理屈を言って一蹴されるのではなく、ヨハネから洗礼を受けるへりくだりを通して、御自身をお遣わしになったほどに世を愛された父なる神の御心、弱い人間の1人として生き、愚かな人間に寄り添っていく御心を示されました。

そのようなへりくだりを示された主イエスが水の中から上がられた時、天が開いて神の霊が鳩のようにして主イエスに降り「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が天から聞こえたといいます。

実に、紀元1世紀のキリスト者たちが、その解釈に戸惑ったほどの主イエスの従順さ、弱さを抱えた人間として、人間の弱さに寄り添っていくへりくだりこそ、主イエスのおっしゃられた「正しいこと」であり、その「正しさ」を父なる神は喜ばれたのでした。

 

宣教の開始に際し、どこまでも父なる神と隣人とに仕えていく従順な姿勢を示され、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とおっしゃられた主イエスは、今日の聖書箇所を通して「私を主と告白するあなたはどう生きるのか」と私たちに問いかけておられるのではないでしょうか。

 

実に主イエスは「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい.そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(11:29)と下に上って行く生き方、へりくだって他者に仕える生き方、神のかたちとして造られた人間のまことのいのちのあり方を私たちに示してくださいました。

その主イエスに結ばれ、御体の肢とされ、聖霊によって養われている私たちが、主イエスの似姿という実を結ぶことができますように、主イエスの御名にふさわしく生きることによって主イエスを証しすることができますようにとの祈りを携え直して、今週もそれぞれの礼拝の場・宣教の場へと遣わされてまいりたいのです。

 

説教後の祈祷

主イエス・キリストの父なる神さま、御名をあがめ賛美します。

天で御心が行われておりますように、地上に、私たちの間に、あなた様の御心にかなったこと、正しいことがすべて行われる御国がきますように。

主イエスが示された従順でへりくだった生き方、隣人の弱さに寄り添っていく生き方は、決して難しく複雑なものではありませんが、絶えず思い上がろうとする、また安逸をむさぼろうとする罪の根を抱え続ける私たちにとって、決して簡単なことではありません。

十字架と復活のイエスを主と公に信仰を告白した洗礼は一度限りですが、御許に立ち返り、御許から送り出される信仰生活の旅路は一生続きます。

私たちが救われっぱなしで終わりではなく、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをなさった主イエスの御名にふさわしい者として、内なる戦いを放棄することなく、最後まで御心に御言葉に従って歩み切ることができますように。

気まぐれな私たちの信心や悔い改め、使命感や義務感を根拠としない聖霊を注いで、今週も御心にかなった、まことの正しい道へとお導きください。

人間と同じ者になられ、人間の姿で現れ、へりくだって人間の弱さに寄り添い、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であられた主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

            (2025年1月12日 降誕節第3主日礼拝説教)